Blockhead in the words

自動書記

マークス寿子、キャシャーン

メイロマという方の事を最近知った。

 

日本の男が女を助けないのはブラック企業が大きな顔をしている理由と同じ - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

 

ロンドン在住の目から日本との比較を得意とする方らしいんだが、読んでいてマークス寿子の事を思い出した。

 

マークス寿子 - Wikipedia

 

そして芋づる式に思い出したのが実写映画版のキャシャーンだ。私の中で「マークス寿子」と映画版の「キャシャーン」はなぜか同じカテゴリに入っている。

 

高校生の時は目に付いた本をとりあえず読むという感じの読み方をしていて、そこでなんとなく手に取ったのがマークス寿子の「大人の国イギリスと子どもの国日本」った。氏の主張は徹頭徹尾一貫していた。「日本は最悪で英国は最高」これだけである。特に理由も無く読み始めて私は自分の中に、不思議な違和感が芽生えるのを感じた。氏の言ってる事はおかしい、あまりにも恣意的な解釈すぎる。後にマークス先生はいわゆるトンデモ本等に数えられている方だと知るのだが、当時田舎高校生の自分がそれを知るはずもない。それまでの純というか子供というか阿呆な私にとって書物とは知らないことを教えてくれる、基本的には露骨に間違った事など書いてあるはずのない物だった。もちろん今考えればそんなはずはないのだが、当時の私にとって自発的に書いてあることに反発を覚え間違いを指摘できる、という状況は生まれて初めての経験で、あまりの事に驚いたのだ。この世にはなんと、ムチャクチャな本がある…そういった気づきを子供だった私に教えてくれたのがマークス寿子先生だ。

 

その前後に見たのがキャシャーンの実写版。宣伝などで見て期待して映画館に出かけた私は映画館で驚いた。まるで面白くない。そんな馬鹿な。それまでの私にとってお金をかけて劇場でかかる映画なんてつまらないはずはなかった。テレビで見る映画だって大体面白いし、たまに面白くないものも所詮無料でテレビで見ているからだとどこかで思っていた。ところがあんなに面白そうに見えたキャシャーンが苦痛でたまらなかった。この世にはつまらない映画が存在する…それを私に教えてくれたのが映画キャシャーンである。

大人になるにつれて、私はキャシャーンのどこがダメだったのかを考えるようになった。それを通じて私は、映画や物の構造や批評について考えるようになったし、本当に良かった。個人的には大好きな物の大好きな部分を語るのと同じくらい、怒りや嫌悪を感じる物の理由を考えるのは大事だと思う。二つの理由はひとつの同じ人格を光と影の両側から見ているようになっていて、色んな側面から見ることで初めて自分の像が見えてくるのだ。

 

つまるところどちらも私をひとつ大人へと導いてくれた物である。どちらの事を思い出す時も私は怒りと、悲しさと、ほんの少しの子供時代への憧憬が入り混じった、そんな複雑な感情を私にくれる。どちらも自分が情緒的に成長する中の一里塚であり、大きな糧になってくれた大事な作品だと思うし感謝している。だが願わくば、マークス先生の本を読んだ時間は返して欲しいし、キャシャーンに払ったお金も返して欲しい。それとこれとは別だ。