Blockhead in the words

自動書記

世界が平和でありますように

最近は七夕が近いためか色んな人が短冊に願いを書いてウェブ上にアップしているが、

その中でたまたま見たものに「世界中のかわいい男の子と女の子が幸せでありますように」というものを見た。

別に怒ってるわけでもないが、人生の中でこういう言説に出会う場面は割と多く、これを見るたびに私は驚愕してしまう。

 

美しいものだけに囲まれたい、というのは個人の自由だと思うのだが、

美しくないものの幸せを願わない、と公にする事に躊躇の無い人の意識って不思議だ。

個人的な経験上、そういう人はアイドルやアニメや有名人、なんでも良いが理想化された人間及び世界に特別執着している傾向がある。

短冊を書いた人はすごく好きでおっかけているアイドル(的存在)がいるようなのだけど、恐らく自分の好きな対象がそういう事を言うのは望んでないんじゃないかと思う。

かわいいは正義、とはかわいさの暴力性をあらわした天才的なコピーだ。

自分の知人には理想化された異性に特別執着する人が多かったのだが、自分は正反対に幼少期から特別に執着した好きな女優やアイドル等がいない。

学生の時の茶飲み話で好きな女性のタイプは?と聞かれて無さ過ぎて困り、口ごもっていたら、つまらないヤツめ!とまわりになじられた経験から、以後はその場が盛り上がるような事をでまかせで言うようになったほどだ。

 

自分がこういう人間なんだな、と自覚した瞬間で覚えているものがひとつあって、それは学生時代に「花とみつばち」という漫画の一巻を読んだときだった。

モテたくて仕方の無い童貞高校生の主人公が、経験豊富な大人の女性にてほどきされモテる男を目指すという漫画なのだが、

その第一話で主人公は、師となる女性から「男は花、女はみつばち、蜜を吸ってもらえるように必死で大きな花を咲かせなさい」というような意味の事を言われる。

うろ覚えだがこの台詞を見たときに、自分が分かってなかった世の中の仕組みがようやくおぼろげに見えて感心し、同時に自分にそのゲームのルールに乗っかる気がまるで無いことに気がついた。

それ以後、自分のなかで元々なかった異性にアピールできるという意味でのファッションへの興味などはほぼ切り捨てられ、最低限の清潔感だけ保てば良い、という意識で生きてきた。

 

花を咲かせる、という例えは大変に言い得て妙で、恋の花が咲くという慣用句もある。つまり恋は必ず枯れる事が定められている。

あらゆるメディアを通して生まれる「かわいい」ものたちは枯れないよ!とこちら側に言い続けてくれる気持ちのいい恋ものがたりなのだろう。冒頭のかわいい男の子と女の子が幸せな世界、というのは要するに終わらない世界を示していると思う。

その気持ちは大変わかる。

でもそれを実在する人間や、実際の世界に求め続ける事は、自分にとってはあまりにも残酷で呆然としてしまう。腐臭のする薔薇のようだ。

耐え切れないほどの腐臭を無視して美しさだけを見る、という行為ができる事は心底才能のある人しかできない事だと思う。

自分にとってはその人間が思い悩む腐臭が大変魅力的なのだが。。

 

自分だって勿論異性の容姿は気になるし大事だ。

それでも世界平和を望む時にさえ美しいものだけの幸せを願う、というのは病理現象に近いとすら思ってしまう。笑いながら人の首を絞めてるみたいだ。

人の欲望って面白い。

マークス寿子、キャシャーン

メイロマという方の事を最近知った。

 

日本の男が女を助けないのはブラック企業が大きな顔をしている理由と同じ - WirelessWire News(ワイヤレスワイヤーニュース)

 

ロンドン在住の目から日本との比較を得意とする方らしいんだが、読んでいてマークス寿子の事を思い出した。

 

マークス寿子 - Wikipedia

 

そして芋づる式に思い出したのが実写映画版のキャシャーンだ。私の中で「マークス寿子」と映画版の「キャシャーン」はなぜか同じカテゴリに入っている。

 

高校生の時は目に付いた本をとりあえず読むという感じの読み方をしていて、そこでなんとなく手に取ったのがマークス寿子の「大人の国イギリスと子どもの国日本」った。氏の主張は徹頭徹尾一貫していた。「日本は最悪で英国は最高」これだけである。特に理由も無く読み始めて私は自分の中に、不思議な違和感が芽生えるのを感じた。氏の言ってる事はおかしい、あまりにも恣意的な解釈すぎる。後にマークス先生はいわゆるトンデモ本等に数えられている方だと知るのだが、当時田舎高校生の自分がそれを知るはずもない。それまでの純というか子供というか阿呆な私にとって書物とは知らないことを教えてくれる、基本的には露骨に間違った事など書いてあるはずのない物だった。もちろん今考えればそんなはずはないのだが、当時の私にとって自発的に書いてあることに反発を覚え間違いを指摘できる、という状況は生まれて初めての経験で、あまりの事に驚いたのだ。この世にはなんと、ムチャクチャな本がある…そういった気づきを子供だった私に教えてくれたのがマークス寿子先生だ。

 

その前後に見たのがキャシャーンの実写版。宣伝などで見て期待して映画館に出かけた私は映画館で驚いた。まるで面白くない。そんな馬鹿な。それまでの私にとってお金をかけて劇場でかかる映画なんてつまらないはずはなかった。テレビで見る映画だって大体面白いし、たまに面白くないものも所詮無料でテレビで見ているからだとどこかで思っていた。ところがあんなに面白そうに見えたキャシャーンが苦痛でたまらなかった。この世にはつまらない映画が存在する…それを私に教えてくれたのが映画キャシャーンである。

大人になるにつれて、私はキャシャーンのどこがダメだったのかを考えるようになった。それを通じて私は、映画や物の構造や批評について考えるようになったし、本当に良かった。個人的には大好きな物の大好きな部分を語るのと同じくらい、怒りや嫌悪を感じる物の理由を考えるのは大事だと思う。二つの理由はひとつの同じ人格を光と影の両側から見ているようになっていて、色んな側面から見ることで初めて自分の像が見えてくるのだ。

 

つまるところどちらも私をひとつ大人へと導いてくれた物である。どちらの事を思い出す時も私は怒りと、悲しさと、ほんの少しの子供時代への憧憬が入り混じった、そんな複雑な感情を私にくれる。どちらも自分が情緒的に成長する中の一里塚であり、大きな糧になってくれた大事な作品だと思うし感謝している。だが願わくば、マークス先生の本を読んだ時間は返して欲しいし、キャシャーンに払ったお金も返して欲しい。それとこれとは別だ。

 

探してます

子供の頃に見た恐竜が現代的な生活をしてる設定の海外ドラマで、その世界にはテレビも車もある限りなく現代っぽい設定なんだけど、その世界にはある決まった日に神聖な火山か何かに向かって何人かで雄たけびをあげないと一週間とかで世界が滅ぶっていう言い伝えがあってそれが受け継がれてるんだけど、ある年に主役の一家に役割が回ってきて父親と大学生くらいの年齢の息子と父親の友人の要職についてる感じの人が儀式を行いに向かうんだけど、息子は進歩的な考え方の人間でこんなのは迷信だからやめてしまえばいいと思っていて儀式をなんとか妨害すると、父親や友人や世界中の人がパニックに陥って世界は滅亡するというムードで悲観に包まれるんだけど、実際にはもちろんそんなことはなくて「我々は迷信を克服し近代的な世界に生きる」みたいな感じになって青年は満足するんだけど、父親と友人は自分たちが迷信にびびってたことを笑いあいながら喋ってるときにふとしたことで口論になってすごく仲が悪くなってギスギスしてしまって、それを見た青年は思い悩んで再び儀式の場所に二人を連れて行って、迷信だからやらなくていいって言い張る二人に強引に雄たけびをあげさせると、二人は全力で叫んだことで余計な力が抜けてスッキリしてお互いの悪かった所を謝りあって仲直りして帰って行って、青年はそれを見て満足そうに自分も雄たけびをあげてラストシーン、っていう話で、子供の頃にこれを見た事で宗教的な行事や現代から見ると非科学的な形式にはそれぞれにきちんとした合理性とか実効性があってそれを神性が担保してる、というまあ当たり前の考え方(たとえばお葬式とかは死者の魂を送るっていう宗教的な表の意味があるけど、残された人たちに故人が死んだことを葬式とかその後の49日とかを経て、徐々に納得させるっていう合理的な効果があるとかそういう事)に気づけたすごく印象深い話なんですが、今までずっと「恐竜家族」っていうドラマの話だと思ってて今全話解説見たらそんな回はないらしくて、あのドラマはなんだったのかすごく気になってますので知っている方がいらっしゃったら是非ご一報下さい。

 

追記:

恐竜家族でした http://muppet.wikia.com/wiki/Episode_105:_The_Howling